Harmony 2019年1/2月号
日本ドライブ紀行 鹿児島県

鹿児島
維新150周年とそれから

文・松尾千歳 写真・平川雄一朗

明治維新150周年と大河ドラマ「西郷(せご)どん」で注目された鹿児島。維新の偉業をなしえた理由を思えば、常に薩摩藩主、島津氏の存在があった。2019年を迎え、やや落ち着いた彼の地をゆるりと旅し、島津氏ゆかりの地をめぐる。2020年春には鹿児島(鶴丸)城の御楼門復元が予定されており、城山を背に往時の“薩摩の景観”が蘇るだろう。鹿児島再訪の楽しみは尽きない。

ヨーロッパが日本と出会った地「薩摩」

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幕末・維新は薩摩藩を抜きにしては語れない。幕末、島津斉彬(なりあきら)・西郷隆盛・大久保利通ら多くの偉人が薩摩藩から飛び出して新しい時代を切り開いていった。

ではなぜ薩摩藩からなのか。それは薩摩が外国の窓口だったからである。

外国の窓口というと、長崎だけだったというイメージが強い。ただこれは17世紀に徳川幕府がそう位置づけたものである。位置づけられる以前、南九州の海にも数多くの外国船が浮かんでいた。特に西欧人にとっては日本の入り口であった。それは1587(天正15)年のメルカトルアジア図を見るとよくわかる。西欧人が日本の位置をやっと知った段階の地図で、日本がひとつの島として描かれ、適当な地名が記されている。だが南端には「Cangoxi-na」とある。日本とヨーロッパの出会いの舞台が鹿児島だったことを物語っている。

鎖国体制下、西欧船は薩摩藩領に寄港できなくなったが、19世紀になると状況が大きく変化する。幕府の指示に従うオランダ船は、薩摩藩領の沖縄・南九州を素通りして長崎へと向かったが、植民地を求めアジアに進出してきたイギリス・フランスは、幕府の指示など何とも思っていなかった。彼らの船は薩摩藩領を素通りせず寄港した。

16世紀、鉄砲やキリスト教の伝来の舞台が南九州だったように、19世紀の西欧列強との出会いも日本の南端に位置する薩摩藩領がその舞台となったのである。

“富国”に注力した斉彬の偉業

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1840年代、薩摩藩は強大な軍事力をちらつかせ通商を迫る西欧列強の激しい外圧にさらされた。そして、このままでは日本が植民地化されると危機感を抱き、それを阻止するために動き出した。この動きをリードしたのが島津斉彬である。

島津斉彬は、日本が植民地化を免れるには、幕府や藩という枠を越え、一丸となって「富国強兵」策を推進し、日本を西欧列強のような強く豊かな国に生まれ変わらせなければならないと考えた。

日本が一丸となってというのは、我々、現代人は理解できる。だが、当時は幕府や藩が国家。今に置き換えると宇宙からの侵略に備え、地球上の国がひとつにまとまれと言っているようなものである。実現は困難を極めた。

また、ペリー艦隊が来航した1853(嘉永6)年頃から、幕府や他藩も近代化・工業化事業を本格化させていくが、これらは大砲鋳造・軍艦建造など軍備の強化が主であった。いわゆる「強兵」策である。

これに対し、斉彬は軍備の強化だけでは日本を守ることはできないと考えていた。人びとに豊かな暮らしを保証すれば「人の和」が生まれる。「人の和」が日本を守る城となると、「富国強兵」を唱え、紡績やガラス・食品加工・医薬など様々な産業の育成、教育やガス・電信など社会基盤の整備にも力を注いだのである。

日本をひとつにまとめ、強く豊かな国に生まれ変わらせる。これを実現させるには身分に拘わらず有能な人材を登用する必要があり、斉彬は西郷や寺島宗則ら多くの人材を登用した。

1858(安政5)年、斉彬は没したが、弟の久光や西郷・大久保らが斉彬の遺志を受け継ぎ、明治維新で日本をひとつにまとめ、「富国強兵」を明治政府の方針に据えたのである。

「蘭癖」と言われた曽祖父、重豪が斉彬を育んだ

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幕末の混沌とした時代、斉彬がいち早く日本の進むべき道を指し示すことができたのは、彼が日本をめぐる世界情勢について明確な知識をもっていたからである。そしてこれは、「蘭癖(らんぺき)」と言われるほど海外の文化に強い関心を示した曽祖父・重豪(しげひで)によって授けられたものであった。

重豪は、1755(宝暦5)年わずか11歳で藩主に就任し、1787(天明7)年に隠居、さらに1833(天保4)年に死去するまで78年もの間、藩政に関与しつづけた。幼い頃から海外の文化に強い関心を示した重豪は、海外の珍しいものを集めまくった。西欧製の絵画・楽器・ガラス・刀剣・時計・オルゴール、さらにオランウータンやイグアナの剥製なども所持していた。

また重豪は、薩摩の文化を向上させようと熱心に開化政策を推進しているが、これにも重豪の趣向が反映され、中国や西洋の知識・技術を積極的に取り入れようとしたものであった。

例えば、重豪が創設した藩校造士館や演武館・医学院では和漢洋の学問が教授された。暦を作るために築かせた明時館(天文館)ではゾンガラス(サングラス)や渾天儀などを使って天体観測が行われていた。天文館はいま鹿児島の繁華街にその名をとどめている。さらに、領内で産する薬用植物の効能を中国の学者に質問してその回答をまとめた『質問本草』や、中国語辞典『南山俗語考』、世界地図に解説を加えた『円球万国地海全図』など数多くの書籍を編集・出版させた。

また1787年に隠居したのは、娘・茂姫が11代将軍家斉の御台所(夫人)となってしまったからであった。大名の娘が御台所となるのは前例がなく、隠居した重豪は将軍の岳父として絶大な権力を誇った。さらに将軍岳父の権威にあやかろうとする大名家から次々と縁談話が舞い込み、重豪の次男昌高は中津藩主奥平家に、12男斉溥(なりひろ)は福岡藩主黒田家にというように子の多くは藩主の養子・夫人に迎えられた。島津家を中核とする大名家の血縁グループが形成されたのである。

この重豪が死去したのは斉彬が25歳の時。重豪に可愛がられて育った斉彬も海外の情報・文化に精通するようになっていた。また重豪が築いた血縁グループは、斉彬の活躍を支える母体となったのである。