ル・マン24時間レース2026地道なカイゼンが、頂へ届いた
トヨタがル・マンで証明したもの
文/山本シンヤ 写真/TOYOTA RACING、山本シンヤ
2012年からFIA世界耐久選手権に挑みつづけてきたトヨタ自動車にとって、ル・マン24時間レースは単なる勝敗の場ではない。ハイブリッド技術を限界まで磨き、未来の市販車へつなげる過酷な実験場だ。苦しい時期を越え、新体制「TOYOTA RACING」として挑んだ2026年。エンジニアたちの意地と愚直なカイゼンが、4年ぶり6回目の総合優勝を手繰り寄せた。栄冠までの道のりを間近から取材しつづけてきた筆者が、その内幕を語る。
勝ちつづけた王者が直面した、厳しい現実
2012年からFIA世界耐久選手権(WEC)に挑みつづけているトヨタ自動車。同社にとってWECという舞台は、単に速さを競うだけでなく、市販車の未来を見据えた「ハイブリッド技術を限界まで鍛え上げる過酷な実験場」という極めて重要な役割を担っている。
2018年の初優勝から2022年まで5連覇を達成し「絶対王者」として君臨してきたが、近年は強力なライバルメーカーの急増とBoP(性能調整)の影響により、非常に苦しい戦いを強いられていたのも事実だ。
これまではマシンの基本性能の劣勢をピットワークやレース戦略をはじめとする「総合力」で補ってきたが、それも限界に達しつつあった。
小林可夢偉選手の危機感が、チームを変えた
ドライバー兼チーム代表の小林可夢偉選手は当時を振り返り、「我々は『BoPがあるから何もできない』ということに甘えすぎていた。それに対してライバルは『何としてでも勝ってやろう』というメンタリティが強かった。参戦メーカーが増えた今、今までのWECはこうだったでは通じない」と深く分析。この強い危機感がチームの意識を大きく変えるきっかけとなったそうだ。
かつての5連勝時代には「実質的な強力なライバルが不在だったから勝てただけでは」という冷ややかな視線や、フェラーリのような世界的強豪メーカーが参戦して以降勝てなくなると「ほら、やっぱりライバルがいたら勝てない」という世間の苦言もあった。
だからこそ2026年のトヨタは、正面から競い、勝つ必要があったのだ。チームは2026年シーズンに向けてマシンの大幅アップデート(エボ・ジョーカー)を決断するとともに、組織のあり方にも大きくメスを入れる不退転の決意を固めた。
「TOYOTA RACING」への変更が示した本気
組織の改革にあたり、チーム名は従来の「TOYOTA GAZOO Racing(TGR)」から「TOYOTA RACING」へと変更、マシンも「TR010 HYBRID」へと一新された。
トヨタ自動車の副社長であり新生TOYOTA RACINGのトップを務める中嶋裕樹氏は、従来の組織の克服すべき課題を「風通しの悪さ」だと指摘。具体的には個々の能力は高いのに組織としては十分に発揮できていない状況だが、これはトヨタ自動車自身が懸念するコミュニケーション不足や現場との距離感という課題とまったく同じ。
白い巨塔(豊田章男氏は技術部のことを皮肉を込めてこのように呼ぶ)の代表たる中嶋裕樹氏はこの状況を打破するため、無理を言ってエース人材を投入、綺麗ごと抜きの「勝ち」にこだわる体制を構築した。
TOYOTA RACINGが掲げた「技術のためのレース」
「勝ち」にこだわる体制とは何か?市販車を見据えた「もっといいクルマづくり」を目指すGRに対し、TOYOTA RACINGが掲げたテーマは「For the Engineering Race(技術のためのレース)」だ。これは、純粋に限界の先にある「もっといい技術・パワートレーン」を泥臭く追求するという、エンジニアたちの意地とプライドをかけた再出発を意味していた。
中嶋裕樹氏は「TOYOTA RACINGはモリゾウに頼るのではなく、自分たちのやり方で挑戦したい」と啖呵を切り、東京オートサロン2026で「今年は絶対にル・マンに勝つ」と宣言したのだ。
チームは量産車開発部隊が長年培ってきた「燃費・ドライバビリティ・排気」の高度な両立技術を投入して制御ソフトウェアを進化。加えてBoP(性能調整)の影響を受けないあらゆる領域でのアップデートを行った。
その一例が「ピット作業での確実性を高めるハブ(車軸)形状」、「空力特性の安定化」、「駆動力とタイヤを最大限に活かすセットアップ」だが、これら以外にも「知ると『マジか!』っていうこともやっている(小林可夢偉選手)」という無数の緻密なカイゼンも行なわれ、エンジニア部隊がもたらしたトヨタの新しい武器となった。
液体水素プロトタイプが見せた未来
レースウィークにはTOYOTA RACINGの「For the Engineering Race」を象徴するもう一つの挑戦として、液体水素を燃料とするプロトタイプカー「TR LH2レーシング・プロトタイプ」のデモ走行も実施。TOYOTA RACINGの副会長である中嶋一貴氏がステアリングを握り、サーキットを力強く周回。水素エンジンならではの雑味が抑えられた心地よいサウンドを響かせ、未来への新たな可能性を観客に届けた。
走行後、中嶋一貴氏は「とてもいい意味で『普通に走る』というのが一番の印象です。ドライバーがもっとマシンに慣れれば、更にペースを上げて走れると思います。空力バランスなど細かいセットはシステムの開発に注力していたのでこれから煮詰める段階です。ただ出力に関しては、テスト段階では『これ以上は不要』と感じるほどでしたが、ル・マンを走ると、『もう少しパワーがあってもいいかな』と感じました」と語り、確かな手応えと課題を口にした。
「敵は炭素」で示した全方位の技術選択肢
トヨタの水素への挑戦は単なるモータースポーツの枠に留まらず、未来のカーボンニュートラル社会に向けた極めて重要な役割を担っているのは言わずもがな。ル・マン24時間レースの主催者であるACO(フランス西部自動車クラブ)は、将来的に水素エンジン車および燃料電池車が参戦可能な「水素カテゴリー」の導入に向けた取り組みを継続しており、今回の走行はその実現に向けた大きなマイルストーンにもなった。
加えて、今年も会場内に設けられた「H2ビレッジ」には、このマシンだけでなく豪州でテスト走行中の「ハイエース(水素エンジンHEV)」、トヨタがサプライヤーとしてシステムを供給する「Hyliko」の大型トラック(FCEV)や日本でもおなじみの燃料電池バス「SORA(FCEV)」も並んで展示された。
「敵は炭素であり、内燃機関ではない」という思想のもと、乗用車から商用大型モビリティ、そしてレーシングカーに至るまで、トヨタはBEV一択ではない全方位の技術選択肢を世界に提示する。「H2ビレッジ」で見せた多彩なアプローチは、未来の持続可能なモビリティ社会を支える大きな基盤へと役立っていくはずだ。
予選14/15位でも揺るがなかった理由
そんな必勝態勢で迎えた2026年のル・マン24時間レースだが、予選は他車の影響やトラックリミットによって14/15位と大きく沈んだ。しかし、チームに動揺は一切なかった。
小林可夢偉選手は「例年は予選シミュレーションをやっていたが今年はやっていません。その代わり決勝に関してはポジティブなパフォーマンスが出ているので、決勝を重視してやってきた結果」と冷静に語り、平川亮選手も「大事なのは決勝でそのために準備をしてきた。後方からのスタートだが確実に前に行く」と力強くコメント。
要するに、予選の順位に惑わされず自分たちが組み立ててきたプロセスを愚直に信じ抜く姿勢が、今回のドラマの伏線となっていた。
100人以上の役割分担がつくる強さ
レース前、小林可夢偉選手はチーム代表としてこのように語った。「走っているのはドライバーですが、裏でエンジニアも24時間戦っています。とにかく『“強いクルマを作る”ってどういうプロセスをやっているんだ』を見ていただきたい。ル・マンの現場には100人以上のメンバーが来ていて、1人ひとりのスケジュールが細かく予定されています。まさに“役割分担”ですが、その役割を1人ひとりこなしていくことこそが、今回のル・マン24時間レースにおける“我々の戦い方”です」
決勝は一見順調に進んでいるように見えたが、その裏では7号車は序盤のスローパンクチャー(タイヤの空気圧がゆっくりと抜けていく事象)や、ドライブシャフトのトルクセンサー不良による出力低下、8号車はFCY(フルコースイエロー=コース全周に渡る速度制限と追い越し禁止)中の速度超過ペナルティや、ブレーキカバー周辺の損傷によるタイムロスなど、実はさまざまなトラブルが襲っていた。
しかし、そんなピンチもエンジニアやメカニックの「人の力」が強力に支え、マシンをコースへと送り戻しつづけた。そしてライバルの動きに惑わされない大胆なピット戦略とメンバー全員が最高の仕事を遂行した結果、夜明けを迎える頃には上位へと進出。レース終盤、激しい首位争いの中で7号車が遂にトップへと浮上する。
8号車が見せた、勝つためのチームプレイ
その後、2位を走っていた8号車のセバスチャン・ブエミ選手は、後方から猛烈なペースで追い上げてきたBMW(20号車)を上手に抑え込み、7号車を先行させた(8号車はその後タイヤ消耗もあり3位に後退)。平川亮選手は「自分たちが優勝を狙うのが難しい状況になった時、チームとしての勝利を最優先に考えた」と語っているが、完璧なチームプレイに徹したのである。
ペース、信頼性、戦略、そして絶対に勝つという全員の想いが噛み合い、運をも味方につけた7号車は終盤、ついに首位に立つ。最後はチーム代表の小林可夢偉選手自らがチェッカーフラッグを受け、新生「TOYOTA RACING」としての参戦1年目にして、4年ぶり6回目となるル・マン24時間総合優勝を果たした。ちなみに2位BMWとの差は、24時間走ってわずか10.9秒という大激戦であった。
エンジニアたちが自立して掴んだ勝利
レース後のメディアセッションで、小林可夢偉選手は「今回の勝利こそが、エンジニアたちが諦めずに泥臭く積み重ねてきた無数の『カイゼン』の成果であり、新体制が正しかったことの証明」と感慨深げに語った。
レースの翌日、中嶋副社長は豊田会長に向けて、「TOYOTA RACINGはモリゾウに反旗を翻したという話ではなく、モリゾウがつくった土壌から生まれた“新しい挑戦”です。今年のル・マンでは、あなたが育てた仲間たちが自分たちで考え、挑戦し、勝てるチームになった・・・という事を示しています」というメッセージを送った。それは、モリゾウに頼ることなく、エンジニアたちが自立して掴み取った勝利の証明であった。
ル・マン24時間レースの熱は、量産車の未来へつながる
今回の総合優勝は、単なるレースの勝利ではない。これまで「機能軸」の縛りに囚われがちだったエンジニアたちに、「勝つための作戦や、それを実現するための選択肢の奥深さ」という大きな意識改革をもたらしたのである。つまりTOYOTA RACINGとGRの本質は対立ではなく、目指す未来のための手段が異なるだけである。
今回花開いたTOYOTA RACINGの「もっといい技術づくり」から始まった「もう一つのもっといいクルマづくり」だが、この泥臭く緻密なエンジニアたちのプロセスは、今後のトヨタの量産車開発へとこれまで以上に深く力強くフィードバックされていくだろう。
そしてル・マン24時間レースでの熱い戦いと興奮の続きが、2026年9月の「WEC富士」で日本にもやってくる。世界最高峰の耐久レースが魅せる緊迫感と、強豪ライバルたちとのプライドをかけたガチンコ勝負を、ぜひ富士スピードウェイの“現地”にてリアルに体感してほしい。
■TOYOTA RACING:https://toyota-racing.com/jp/
■WEC第6戦 富士6時間:https://fujispeedway.jp/motorsports/2026-wec-rd6