Harmony 2016年5/6月号
日本ドライブ紀行 日光〜那須

奥深き日光・那須へ

文・内田和浩 写真・坂本道浩

太平の世を築いた徳川家康公は、自身の一周忌が過ぎた後、静岡・久能山から日光に神霊を遷すようにと遺言した。なぜ家康公は日光へ遷せと遺言したのか……。この疑問を胸に、ゆかりある社寺を巡り、新緑美しい那須へも足を延ばす旅に出た。

日光

アクセス
東照宮へは、中禅寺湖から第1いろは坂経由で約15km/約30分、日光宇都宮道路・日光I.C.から約2.5km/約10分。東照宮界隈は混み合うため、輪王寺や「西洋料理 明治の館」へは徒歩での移動がオススメ。東照宮から「あさや」へは、霧降高原道路経由で約44.5km/約65分。あさやから「那須いちやホテル」までは日塩もみじライン(有料)経由で約64km/約95分。那須いちやホテルから東北自動車道・那須I.C.へは約10.5km/約20分。
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太平の世を築いた徳川家康公は、自身の一周忌が過ぎた後、静岡・久能山から日光に神霊を遷すようにと遺言した。こうして造営されたのが家康公を祀る「日光東照宮」だ。現在は大規模な「平成の大修理」中だが、この春、陽明門が公開を迎え話題を集めている。なぜ家康公は日光へ遷せと遺言したのか……。この疑問を胸に、ゆかりある社寺を巡り、新緑美しい那須へも足を延ばす旅に出た。

Harmony 2016年5/6月号より

日光

家康公が遺言した国家鎮護の地、日光

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両側に杉の巨木が並ぶ、広くなだらかな坂を登ってゆくと、高さ約9メートルの石鳥居が参詣者を迎える。東照大権現(徳川家康公)を祀る日光東照宮への参道は、山の清々しい空気に満ちている。

徳川家康公は1616(元和2)年4月17日に駿府城(静岡市)で75年の生涯を閉じた。家康公の遺骸はその日のうちに駿府の東にある久能山に葬られた。それは、つぎの遺言によるものだ。

「遺体は久能山に葬り、一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建てて勧請せよ。わしは八州(関東地方)の鎮守となろう」

なぜ家康公は、神として鎮座する地に久能山と日光を選んだのだろうか。諸説ある中で、日光東照宮に神職として長年奉仕された高藤晴俊氏の説がおおいにうなずける。それは、久能山は家康公が人から神へと再生する地であり、神となった家康公が国家を鎮護するために選んだ地が日光というものだ。ではなぜ日光なのか。それは日光が、幕府の置かれた江戸のほぼ真北にあたることに意味がある。天体は不動の北極星を中心にまわる。家康公は、日光を北極星の位置に定め、徳川幕府と日本全体の平和を守ろうとしたのである。

1年後、家康公の柩(ひつぎ)は遺言どおり日光へ移された。日光では家康公の死後すぐに社殿の造営が始まったが、このときの東照宮は、現在とは比べ物にならないほど簡素なものだったという。これが、いま見るような絢爛豪華な姿に変貌したのは、祖父の家康公を敬慕してやまない3代将軍徳川家光公が行った、寛永の大造替(だいぞうたい:1634〜36年)によってである。石鳥居の先にある表門を入り、上神庫(かみじんこ)の大きな妻(建物の側面)に施された2頭の色鮮やかな象の彫刻や神厩(しんきゅう)の「三猿」をはじめとした猿達の彫刻を愛でながら歩いてゆくと、参道が右に折れて、唐銅鳥居の向こうに陽明門が壮麗な姿を現した。

陽明門は唐銅鳥居から見ると、2段に設けられた石段の上にある。下層部分が低く、全体の姿としては頭でっかちに見える。つまり、下から見上げる視線で彫刻がよく見えるように造られているのだ。東照宮全体を見れば、山の斜面を平らに造成して高い石垣を積みあげるなど、戦国時代に蓄積された築城技術が活用されていることがわかる。東照宮は、家康公の理想を形にした「平和の城」なのだ。

その彫刻といえば、陽明門、本殿、拝殿をはじめ、廻廊にもびっしりと施されており、龍や鳳凰などの霊獣、人物、動物、花鳥、植物などじつに多種多様。いずれも吉祥、福徳などを意味する。なかでも人物彫刻は陽明門と拝殿の唐門に限られている。人物の題材は中国に由来するもので、多くの賢人・聖人の像は、政治家としての理想像を家康公に重ねたものと言えるし、無邪気に遊ぶ唐子(中国の子ども)の群像は、平和な世がずっと続くようにとの願いを読み取ることができる。

東照宮の大造替を行った家光公は、「死後も東照大権現にお仕えする」という遺言を残して亡くなった。その遺志を受けて造営されたのが、東照宮の西に位置する輪王寺大猷院(家光廟)だ。東照宮の建築の彩色が白と金を基調にしているのに対して大猷院は黒と金が基調になっている。家光公が東照宮を凌ぐのをはばかったものと思うが、落ち着いた趣のある建築が並ぶ。

江戸期、東照宮や輪王寺の修営は幕府によって20〜30年ごとに行われてきた。現在は国庫補助を受け「平成の大修理」が進行中。このため、一部の建物が覆われている場合がある。

  • 当初は50あったカーブを、いろは歌の48音になぞらえ、わざわざふたつ削ったという「いろは坂」。

  • 陽明門上層。ひとつとして同じ表情のない龍(龍の下は「息」という霊獣)の彫刻が。

  • 陽明門に取り付けられていた唐子の彫刻。下絵は漢画を得意とした狩野派が担当したと考えられている。

  • 輪王寺大猷院拝殿の天井(左)。彫刻の裏面には、取り付け場所を記す墨書や彫りが残り、修復の歴史を物語る(右)。

日光の信仰とともに発展してきた輪王寺

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日光の歴史は男体山(二荒山/ふたらさん)を神体とみなす山岳信仰から始まる。この山に初めて登頂したのが勝道上人(しょうどうしょうにん:735〜817年)だ。いま、日光の社寺がある日光山内から、男体山や中禅寺湖がある奥日光へは、「いろは坂」を走れば30分ほどで行くことができる。急カーブが折り重なるように続くいろは坂は、山の険しさをそのまま物語るものだ。人跡未踏の時代、勝道上人は何度も登山を試みては失敗し、15年の歳月をかけて男体山に登頂している。そのベースキャンプとして麓に創建した四本龍寺(しほんりゅうじ)が発展して輪王寺となった。

日光山の信仰の中心となる堂が三仏堂(総本堂)である。現在は「平成の大修理」が進行中で、巨大な素屋根に覆われている。地上26メートルの高さに設けられた展望見学通路「天空回廊」から修理現場を見学することができる。

目指すべきは創建当初の仕上がり

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東照宮の彫刻をはじめ、江戸時代の匠達が最高の技術で作り上げた装飾も、年数が経てば彩色が剥落し、色あせてゆく。それを当初の姿に修復する現代の匠達がいる。日光の社寺の「平成の大修理」に携わる「小西美術工藝社」だ。東照宮からほど近いところにある工房で、東照宮の彩色彫刻を修復しているところを見せていただいた。彫刻の彩色をいったん剥がし、漆を塗りなおして彩色や金箔押しをしてゆく作業は、じつに地道なものだ。案内をしてくださった小西美術工藝社の林直樹さんは言う。

「修復にはオリジナリティは必要ありません。この部分はもうちょっと色が濃いほうが綺麗かなと思っても、当初のままに戻すのが私達の仕事です。そのために過去の修復に携わった先人達が下図や色指示などの資料を残してくれているのです」

修復に携わる匠に連綿と受け継がれゆくもの

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現在、日本の社寺の修復で使われている漆は中国産漆を混ぜたものを使用することが多いが、下地から上塗りまでの多くの工程ですべて日本産漆を使っているのは日光だけという。用いているのは国産漆の中でも最高といわれる岩手の浄法寺(じょうぼうじ)漆。本物の上質な素材を用いて修復を行いたいという日光の社寺の要望によるものという。廻廊彫刻のような取り外しができるものは工房で作業が行われるが、陽明門の組物に施されている龍などの彫刻は現地での作業となる。彩色されている部分は地上からは見えない部分も多い。そういった部分も当初のままに修復してゆく。なぜそこまで忠実に? という質問に林さんは、「人からは見えなくても、神さまからは見えますよ。なにより自分が見ています」と微笑んだ。江戸から平成へ、そして未来へと、匠達の真摯な心は連綿と受け継がれてゆくことだろう。