Harmony 2016年7/8月号
日本ドライブ紀行 上田〜松代

信州 真田三代の郷探訪

文・内田和浩 写真・上野 敦

大坂夏の陣で劇的な最期を遂げ「日の本一の兵」と称された真田信繁(幸村)、徳川の大軍を2度も退けた知将・昌幸、そして家を守り抜いた堅実な信之……。ゆかりの地をめぐると、真田の気骨が見えてきた。


アクセス
上田城跡公園へは、上信越自動車道・上田菅平I.C.から約4.5km/約15分、上田城跡公園から真田氏歴史館までは約9.5km/約25分、真田氏本城跡までは約13km/約30分、岩屋館までは約16.5km/約35分。上田城跡公園から松代までは上信越自動車道利用で約32km/約40分。県道35号利用では約35km/約70分。途中山越えのためワインディングロードが続く。松代城跡、真田宝物館、文武学校、真田邸は徒歩圏内。松代城跡から長國寺までは約2km/約10分。
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群雄割拠の戦国乱世。一豪族から名を揚げ、信州、上田・松代を治めたのが真田氏だ。大坂夏の陣で劇的な最期を遂げ「日の本一の兵」と称された真田信繁(幸村)、徳川の大軍を2度も退けた知将・昌幸、そして家を守り抜いた堅実な信之……。ゆかりの地をめぐると、真田の気骨が見えてきた。

上田

真田氏中興の祖、幸隆登場

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真田氏のふるさとは、長野県上田市中心部の北東約10キロにある真田の地である。烏帽子岳(えぼしだけ)、四阿山(あずまやさん)の麓に位置する標高約600メートルの盆地で、鳥居峠を東へ越えれば上州(群馬県)に至る。この地を本拠にした真田氏は、真田幸隆が武田信玄配下の武将として活躍するようになって、歴史の表舞台に登場する。

真田の郷めぐりは、まずは「真田氏歴史館」を訪ね、真田一族の基礎知識を学びたい。展示室には文書などの資料のほか、1985〜86(昭和60~61)年にNHKで放映されたドラマ「真田太平記」で使用された甲冑なども展示されている。歴史館に隣接する「真田氏館跡」は「御屋敷(おやしき)」と呼ばれ、豪族の館らしく四方に土塁がめぐらされている。

真田氏館跡を平時の住まいとすれば、戦時の拠点が「真田氏本城跡」と推定されている。3つの郭から眼下に真田の町を一望でき、四方の山の眺望もいい。おそらく山々には砦や狼煙台が設けられ、狼煙による高速通信網が形成されていたにちがいない。

真田氏本城跡の南西には戸石城が築かれた山が見える。武田信玄が、籠城する村上義清と戦い、「戸石崩れ」という人生最大の敗北を喫した山城だ。この城を幸隆は調略によってあっさりと乗っ取ってしまう。喜んだ信玄は戸石城を幸隆に与え、幸隆は武田家臣団のなかで重きを成していく。幸隆は真田家の飛躍の礎を築き、戦国大名として自立する夢を息子らに託したのだった。

  • 真田氏本城跡から南西方向を望む。のちにこの真田の郷は、徳川、北条、上杉ら戦国大名の“草刈り場”となる。

  • 上田城跡公園内にある眞田神社は、徳川勢の猛攻に落ちなかったことから、学業成就に御利益があると人気のスポット。

  • 切り立つ断崖の上に築かれた上田城西櫓。かつてはこの下に流れていた千曲川の支流が天然の要害の役を担っていた。

  • 胴に武運上昇を意味する昇り梯子が描かれた昌幸所用の具足(左/真田宝物館所蔵)。矢狭間と鉄砲狭間(右)。

  • 信繁の勇猛さはたびたび浮世絵にも描かれるほど。歌川芳虎作「真田幸村勇戦之図」上田市立博物館蔵。

  • 鉤(かぎ)の手に二の丸を囲む総延長1,163mの堀跡。現在はケヤキ並木遊歩道となっている。

上田城が見た戦と“滅びの美”

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上田城を築いた真田昌幸は、幸隆の三男である。昌幸にはふたりの兄がいたが、長篠の戦いでそろって討ち死にしたため、昌幸が急遽、家督を継ぐこととなったのだった。

1582(天正10)年、武田氏は織田信長に攻められて滅び、その信長も本能寺の変で斃れると、旧武田領の信濃や甲斐をめぐって、徳川、北条、上杉による争奪戦が繰り広げられた。昌幸はその狭間で懸命に勢力を広げてゆき、生き残りのために徳川家康についた。そして、上杉勢への最前線の要塞として上田城を築いたのだった。

上田城は千曲川の河岸段丘上に築かれた城である。案内してくださった郷土史研究家、益子(ますこ)輝之さんは言う。

「当時は千曲川から分かれた流れがこのあたりで淵になり、尼ヶ淵と呼ばれていました。昌幸が築城する以前からここには城か砦があったらしく、尼ヶ淵は天然の堀の役割を果たしていました」

現在、尼ヶ淵は芝生広場と広い駐車場になっているが、切り立った崖の上に建つ櫓はいかにも堅牢だ。はじめ昌幸が築いた上田城は、石垣もない土づくりの城だったろう。その上田城が合戦の場となったのは、築城して間もない1585(天正13)年のこと。徳川家康が北条氏と結んで、昌幸の領地である上州の沼田を「北条に引き渡せ」と言ってきたのだ。だが昌幸がこの要求をつっぱねたため、家康は激怒し、7000の軍勢を上田城へ差し向けたのだった。これが第一次上田合戦といわれる戦いである。昌幸が守る上田城は総勢2000ほどとされる。この戦いで徳川軍は上田城の二の丸近くまで押し寄せたという。

現在の上田城跡公園の二の丸跡からは、広い道がまっすぐに本丸の東虎口櫓門まで続いている。これでは敵に容易に攻められてしまうだろう。首をかしげていると益子さんが「ここは水の上ですよ」と言う。

「二の丸には三十間堀という、池のような大きな水堀があったので、直進してきた敵は堀を大きく迂回しないと本丸には向かえませんでした」

現在は埋め立てられているのでわからなかったが、いま歩いている広い道がそのまま水堀と考えると攻めるのはかなり難しい。結果、第一次上田合戦は、昌幸の長男信之率いる別動隊が徳川軍を背後から襲い、徳川軍は1300余りの死者を出して敗走した。この勝利によって昌幸の武名は天下に轟いたのである。

それから15年後、徳川家康の東軍と石田三成の西軍が関ヶ原で激突する直前、昌幸と次男の信繁(幸村)は西軍に味方し、信之は東軍につくことを決める。昌幸と信繁が籠る上田城には、家康の跡継ぎの徳川秀忠が率いる3万8000の軍勢が押し寄せてきた。

この頃の上田城は石垣を築き、瓦葺の建物が建っていたらしい。上田城跡からはこの時代の金箔瓦が出土している。真田家が豊臣政権のもとで経済力豊かな大名に成長したことがうかがわれる。城の防御もいちだんと強化されていたことだろう。この第二次上田合戦で、昌幸と信繁は徳川勢を10日間もくぎ付けにし、秀忠は関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を犯してしまう。

昌幸らは徳川に勝ったが、西軍は関ヶ原で負けた。その結果、昌幸・信繁親子は紀州の九度山へ配流されることになった。幽閉先で昌幸は失意のうちに亡くなるが、信繁は九度山で暮らすこと14年、豊臣氏の要請に応えて大坂冬の陣にはせ参じる。そして翌年の大坂夏の陣で、家康の本陣に迫る突撃の果てに、討ち死にした。

上田の地は関ヶ原の戦いののちに信之に与えられたが、上田城は破却された。家康としてはいまいましい城をぶち壊さずには気が収まらなかったのだろう。上田城の佇まいにどこか寂しげな美しさを覚えるのは、己の信念を貫いて滅んでいった昌幸と信繁の滅びの美学が投影されているからなのかもしれない。

関ヶ原の戦い以前は信幸と名乗っていたが、のち信之に改名。これは、西軍についた父・昌幸の幸の字を徳川の世で名乗ることを憚ったためと言われている。ここでは信之に統一する。

真田の隠し湯と忍び伝説

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真田の郷からさらに山間に入ったところにある角間温泉は、「真田の隠し湯」といわれてきた秘湯だ。一軒宿の「岩屋館」の周辺は切り立った岩山が聳え、角間川に侵食された岩が織りなす奇観は、不思議な空間に紛れ込んだような錯覚すら覚える。

渓谷沿いの散策路には「猿飛岩」や「佐助幸村謁見の地」と名付けられた場所がある。猿飛佐助といえば、真田幸村の家来「真田十勇士」のなかで、もっとも知られた忍びだ。その猿飛佐助が岩を飛び回って修行したのがこの地という。それは講談や小説の世界のことだろうと笑う人がいるかもしれないが、真田十勇士のなかには実在したらしき人物もいる。かつて、この角間渓谷は山中で修行する修験道の行者が多く活動していたらしい。戦国時代、修験者は諜報員のような役割を担うこともあった。真田昌幸や信繁が修験者達から各地の情報を得ていて、彼らが十勇士や忍びのモデルとなったとも想像できる。

真田一族や家臣らは、角間の湯に浸かって戦での傷を癒し、温泉に入るたびに刀傷がひとまわり小さくなっていったという。褐色がかった湯が満ちる岩屋館の露天風呂に身を沈めていると、じんわりと心と身体がほぐされてゆく心地がする。角間温泉はいまのわれわれにとってもあまり人に知られたくない、とっておきの「隠し湯」かもしれない。

信州角間温泉 岩屋館

信州角間温泉 岩屋館

真田の郷深くの自然に抱かれた一軒宿「岩屋館」。「真田の隠し湯」とも呼ばれる湯に浸かり、奇岩の雄大な眺めとせせらぎに耳を澄ませば、真田一族も湯浴みを楽しんだのかと想像をかき立てられる。心の込もった料理と女将の温かいもてなしに、再訪したくなる秘境の宿だ。

住所:長野県上田市真田町長2868
電話:0268-72-2323
チェックイン:15:00
チェックアウト:11:00
アクセス:上信越自動車道・上田菅平I.C.から約20分
駐車場:30台