富士ドライブ旅Vol.01/富士山ブームの火付け役「富士講」とは?1900年以上富士山信仰を見つめてきた「北口本宮冨士浅間神社」を訪ねる

Travel

日本最高峰として、そして国の象徴として古くから人びとの信仰を集めてきた富士山。その北麓、山梨県富士吉田市に、富士山信仰の重要な拠点である北口本宮冨士浅間神社は鎮座しています。全国に約1,300社ある浅間神社の中でも最高位の社格を誇り、1900年以上の歴史を持つこの神域は富士山の「北口登山道」の起点であり、霊峰への入口として、多くの人びとの祈りを受け止めてきました。同神社の権禰宜(ごんねぎ)である髙阪雄次氏に話を伺いながら、富士山信仰の歴史とこの地が持つ特別な価値について紐解いていきます。

Text:Michi Sugawara
Photo:Masahiro Miki
Edit:Akio Takashiro(pad inc.)

脇阪寿一氏

脇阪寿一氏からひとこと

レーサー時代、サーキットに向かう時の富士山の見え方が自分のコンディションを予見しているようにも思えました。富士山の周りは空気感が違って、本当に“聖域”にいるような気持ちにもなります。昔の人も同じように感じたからこそ、浮世絵などでよく富士山を描いていたんじゃないでしょうか。




浅間神社とは、富士山の神様をお祀りする神社の総称です。「あさま」あるいは「せんげん」と読みますが、これは歴史の中で生まれた呼び方の違いに過ぎません。その中でも北口本宮冨士浅間神社が特別なのは、富士山の広大な森の一部がそのまま境内となり、富士山の0合目にあたる登山道の起点が神社の中に直接存在する唯一無二の場所だからです。

「当神社の始まりは、西暦110年頃に日本武尊(やまとたけるのみこと)が、この地の先にある大塚丘から富士山を遥拝(ようはい)されたことに遡ります。当初は社殿もありませんでしたが、700年頃にとある噴火をきっかけに現在の地に社殿が建てられ、本格的な神社の歴史が始まりました」と同神社の権禰宜・髙阪雄次氏は語ります。

現在の主祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)ですが、古くは「浅間の大神」として信仰され、神仏習合の時代には「浅間大菩薩」として祀られたこともあるといいます。富士山という偉大な存在が、時代ごとにさまざまな信仰の依り代となってきた歴史がそこにはあります。

そもそも富士山に対する人びとの信仰の歴史は、この地に人が住み始めた太古の昔にまで遡ります。縄文時代の遺跡からは、富士山を意識して配置されたと考えられるストーンサークルが発見されるなど、その麓で自然の恵みを受けてくらす人びとにとって、富士山は常に畏敬の対象だったのです。

9世紀には都良香(みやこのよしか)が記した『富士山記』に、山頂の火口の様子が克明に描写されています。これは当時、すでにある程度の人びとが登頂を果たしていたことを示唆しています。やがて平安時代後期の12世紀頃になると、富士山は山中で厳しい修行を行う修験者たちにとって主要な霊場のひとつとして、確固たる地位を築くようになります。

北口本宮冨士浅間神社や富士講の歴史を案内してくれた権禰宜の髙阪雄次氏。

樹齢1000年の御神木と、為政者の祈りが込められた社殿

高い木々が並ぶ参道を進むとまずその圧倒的なスケールで来訪者を迎えてくれるのが、木造としては日本一の大きさを誇る大鳥居です。この鳥居には60年に一度修繕や建て替えが行われる習わしがあり、現在の鳥居は2014年に改修されたものです。

「鳥居に掲げられた額をご覧いただくと『三國第一山』と書かれているのがわかります。『三國』とは、かつての世界、つまり日本とインド、中国を指します。ここは“世界一の山”である富士山の入口なのだ、と示しているのです」(髙阪氏)

その言葉のとおり、この大鳥居は単なる神社の門ではなく、富士山という偉大な神域への入口そのものを象徴しています。日本一の御山にふさわしい日本一の大鳥居の前に立つと、自ずと身が引き締まるのを感じるでしょう。

境内を流れる水路には、忍野八海と山中湖の水が桂川で混ざって流れてきています。かつては富士講の人びとがこの水で禊をしたとされています。

いざ境内へと足を踏み入れると、その荘厳な空気に圧倒されます。樹齢1000年を超える5本の御神木が天を突き、中でも「冨士太郎杉」と「冨士次郎杉」は圧倒的な存在感を放っています。これらの巨木は、幾度となく繰り返されてきた富士山の噴火にも耐え、この地が神聖な場所として守られてきたことを証明しているかのようです。

そして、江戸時代中期に建てられた重要文化財の建造物群が姿を現します。入口を守る随神門、神楽殿、手水舎、そして拝殿と幣殿(へいでん)、本殿が連なる権現造(ごんげんづくり)の社殿。特に1615年に建立された本殿は、日光東照宮にも通じる絢爛豪華な桃山様式の造りが特徴です。

「当社の社殿は、北条氏、武田氏、豊臣氏、そして徳川氏と、時代の支配者の威信をかけて建て替えられてきました。新しい支配者が『前の時代よりも立派なものを』という気概を、建物の様式や装飾からも感じ取れます」と髙阪氏が話すように、獅子と牡丹、あるいは善政の象徴である「閑古鳥」の故事を模した彫刻など、天下泰平を願う為政者たちの祈りを見て取ることができます。

随神門の先には「神楽殿」がそびえ立っています。「神楽殿」を含め、境内の11棟の重要文化財は、ほぼすべて富士山信仰の中興の祖である村上光清が建立しました。
北口本宮冨士浅間神社の拝殿。屋根の下には「富士講」の奉納額がずらりと並べられています。
拝殿横にある御神木の1本は、根元が一本で、2本の檜が上部で合着していることから「冨士夫婦檜」と呼ばれています。
東宮(写真)をはじめ、西宮や拝殿、本殿に手水舎や神楽殿など、多くの施設が国の重要文化財に指定されています。

江戸時代に花開いた富士山信仰「富士講」

かつて専門的な修行者だけのものであった富士登拝が一般民衆へと大きく開かれるきっかけとなったのが、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて現れた藤原角行師という宗教家の存在です。

「角行は、神主でもお坊さんでもない、いわばアマチュアの宗教家でした。しかし、この世の乱れを憂い、何とかしなければならないという非常に強い責任感から、我流で過酷な修行を重ね、神通力を得て流行り病を治したと伝わる人物です」(髙阪氏)

角行が始めたのは、富士山の神の偉大さを説き、その霊験を人びとに広めるという新たな形での富士山信仰「富士講」でした。「富士講」は江戸時代に日本最大級の民間信仰として庶民の間に瞬く間に広がり、「江戸の八百八町に八百八講あり」といわれるほどの一大ムーブメントとなります。「いつも見えているあの山の頂に、自分も登ってみたい」。そんな素朴な願いが、街道や宿場町の整備という社会インフラの発展と相まって、夏の登山シーズンになると民衆をこぞって富士山へと向かわせました。

そして、「富士講」は神社の発展にも大きな影響を与えます。富士講信者はここを富士登山の最前線基地として準備を整え、この神社で安全を祈願し、そして境内の奥にある登山口から山頂へと出発していきました。拝殿に今も残る数多くの奉納額は、当時の熱狂的な信仰の様子を今に伝えています。

民間信仰たる「富士講」の奉納額が、神道を祀る神社に存置されている状況は一見不思議に思えます。しかし、そこには富士山という同じ対象を祀る富士講の信者たちを受容する寛容さ、あるいは、同地にもたらされる経済的利益といった社会的要因など、さまざまに思いを巡らせることができるでしょう。

江戸時代、「富士講」に訪れる人びとがいかに多かったかを表すような浮世絵。
《富士北口男女登山》歌川芳幾 1860年
浮世絵に描かれるほど、富士の登山道は広く知られ、それだけ需要があったことがうかがい知れます。
《富士両道一覧之図》歌川(五雲亭)貞秀 1859年
境内の奥、西宮の隣には富士登山道吉田口があり、祖霊社には角行が祀られています。
毎夏開催される「富士登山競走」では、この富士登山道吉田口がコースに組み込まれています。

過酷な道のりをへても富士山を登りたいという思いは、現代においても毎年夏に開催される「富士登山競走」として、形を変えて受け継がれています。時代は変われど、霊峰富士の頂を目指す人びとの情熱は今も昔も変わらないのかもしれません。

富士講で栄えた周辺地域 御師の町としての歴史

富士講の隆盛は、北口本宮冨士浅間神社だけでなく、その門前町である上吉田の町全体を発展させました。その中心的な役割を担ったのが「御師(おし)」と呼ばれる人びとです。

御師は、富士講の信者たちを自らの邸宅に宿泊させ、登山の準備から道案内、さらには登拝後の儀式まで、一切合切を担う存在でした。いわば、宿泊業から旅行代理店、山岳ガイド、そして宗教者を兼ねた総合的なプロデューサーともいえます。最盛期には86軒もの御師の家が軒を連ね、それでも不足するほどのにぎわいを見せたそうです。

また、御師たちは富士登山のオフシーズンには江戸や関東一円の“檀家”である有力な富士講信者の元を回り、信仰を広め、次の夏の登拝者を確保。この密接な関係性が、富士講という巨大な信仰ネットワークを支えていたのです。

現在、御師の家はその多くが姿を消し、ほんの数軒だけが民宿として残っています。しかし、この地には今も富士山の入口として、そして信仰の町として人びとを迎え入れてきた歴史と文化が息づいています。

富士山信仰の玄関口「金鳥居」を起点に、かつて御師たちが旅人を迎えた街並み。今もその歴史の面影が息づいています。

日本三奇祭ともされる「吉田の火祭り」

北口本宮冨士浅間神社では年間を通じてさまざまな祭事が行われる中、特に重要とされるのが年に二度斎行される「例祭」です。

「当社の例祭は、5月5日と8月26・27日の二回あります。5月5日が浅間神社としてのお祭り、そして8月が、境内にある諏訪神社のお祭りです」(髙阪氏)

ひとつの神社にふたつの例祭があるのは、この神社が持つ複合的な歴史の証でもあります。浅間神社が富士山という「土地神」を祀るのに対し、諏訪神社はこの土地に古くから住まう一族の「氏神」であったと考えられています。そのため、8月26・27日に行われる諏訪神社の「鎮火祭」、通称「吉田の火祭り」は地元を挙げての一大祭典となっています。

この祭りは、古くから日本三奇祭のひとつにも数えられ、夏の富士山の山じまいのお祭りとして知られています。26日の夕刻になると、高さ3メートルにもおよぶ大松明約80本が町中の通りに立てられ、一斉に火が灯されます。家々の軒先にある松明が焚かれ、町全体が炎と熱気に包まれる様は圧巻です。神輿が町を練り歩き深夜まで続くこの勇壮な祭りは、富士山に感謝を捧げ、噴火を鎮めるための祈りとして、古くからこの地で受け継がれてきました。

なぜ人びとは富士山を信仰するのか?

「富士山というのはやはり非常に大きな存在ですので、理屈を抜きにして、その存在自体が人の心を打ちます。だからこそ、さまざまな信仰の依り代となってきたのでしょう。

かつて富士山の山頂は、人が到達できない未知の場所でした。だからこそ、そこに神様がいらっしゃると信じることができた。しかし、人類が山頂に到達し、さらには宇宙にも到達した今、神様はどこにいらっしゃるのか?そう考えると、信仰とは何かを改めて考えさせられます」(髙阪氏)

この問いは、科学技術が発展した現代において、私たちが自然や見えない存在とどう向き合っていくべきか、という根源的な問いかけでもあります。この地の幽玄な空気に触れると、かつての人びとが抱いた祈りや願い、そして壮大な自然への畏敬の念を共有できるように思えるはずです。霊峰富士と人びとが紡いできた信仰の深奥に触れてみてはいかがでしょうか。

次の記事では、そんな霊峰・富士山が育んできた自然を体感するドライブ旅を提案していきます。

紹介スポット
基本データ

北口本宮冨士浅間神社

住所:山梨県富士吉田市上吉田5558
アクセス:中央道・河口湖I.C.から約3km
駐車場:あり(無料/約160台)
URL:https://www.sengenjinja.jp/


【関連記事】

Vol.02/青木ヶ原樹海、白糸の滝、大淵笹場――自然と人の営みが紡ぐ富士山麓の景観美
Vol.03/忍野八海とRECAMP 富士スピードウェイで触れる、自然の静寂
Vol.04/ミスターSUPER GT脇阪寿一氏と巡る「富士モータースポーツフォレスト」の魅力
Vol.05/祈りから創造へ 富士モータースポーツフォレストが描く未来

Access to Harmony Digital アクセス方法

MYページから、デジタルブック全文や、
TS CUBIC CARDゴールド会員さま、有料購読者さま限定コンテンツをご覧いただけます。

TS CUBIC CARD TS CUBIC CARD ゴールド個人会員さまMY TS3 ログインはこちら

※本サービスのご利用は、個人ゴールド会員さまとなります。
※一部対象外のカードがございます。

TS CUBIC CARD ゴールド法人会員さま有料購読会員さまENEOSカードPゴールド会員さまの認証はこちら

MY TS CUBICにログイン後、トップページの「あなたへのおすすめ」エリアに掲載されている
「Harmony DIGITAL」バナーをクリックしてください。

※バナーイメージ

Summer 2025

アクティブな毎日、ゆとりと調和のある生活に役立つクオリティマガジン「Harmonyデジタルブック」をお届けします。