過去を思い出し、未来を想像する。人生をより深く味わうための思考の旅へ全4回
松任谷正隆の連載エッセイ 連載Vol.4

「カコはミライの中にある」
夢と現実
音楽プロデューサーであり、エッセイストでもある松任谷正隆氏による連載エッセイ。過去を思い出し、未来を想像する。人生をより深く味わうための思考の旅へ。
Illustration:Kenji Oguro
前回はカメラ小僧だった中1くらいまでの話を書いた。カメラ小僧といったって写真小僧とは違う。機械としてのカメラが好きな変なカメラ小僧だ。そんな変な小僧も思春期とともにカメラ熱は冷めていった。いつ冷めていったんだろう。思い出してみてもわからない。気が付いたら興味は別のところに移っていた感じだ。とはいえ、完全に炎が消えたわけではなかった。カメラ小僧第1期最後の炎は、ようやく自分のお金で買ったニコマートだ。ニコンの廉価版一眼レフカメラである。これがたぶん大学の1年だか2年だかのときだったはず。そしてこのときの購入に至る動機は、単純に機械に憧れて、というものではなく、もっと不純で、デートに使う道具として欲しかった、というものである。つまりカメラはあくまでも脇役であったわけだ。いや、これがカメラ本来の姿であるとも言えるか。そしてその後、マグマは地中深く潜り、火山の噴火なども起こらなかった。
時代は流れ、それが地表に露出しかけたこともあった。30代の終わり頃、あれは名古屋の質屋会館で(今は違う名前になっていると聞いたが)昔憧れたカメラたちが、楽勝で手に届く値段で売られているのを見て、これは!と思って数台購入。そして、それらを購入した値段の倍くらいかけてリペア。ほぼ同時期に、ライカ好きだった僕の叔父が他界し、その遺言で彼所有のライカたちがどっさりと我が家にやって来たこともあって、あの頃のわくわく感というか、どきどき感が一瞬よみがえったように思えたのだった。とはいえ、憧れたものが一気にたくさん家にやって来るのは、1台に夢見たあの頃とはずいぶん違う。はっきりとわかったのは、自分の愛情の量は決まっていて、それはどうやっても増えない、ということだった。つまり1台にかけられる愛情が10台だと10分の1になってしまうということである。でもたぶん、これは何にでも言えると思う。服でもクルマでも、家でもだ。もっと言えば・・・いや、それはやめておこう。
さらに時は流れて、カメラはデジタル時代に突入。ある程度値段がこなれてくると、新しもの好きな僕としては、では一度買ってみようか、ということになった。ところが買ってみたのはいいが、これが機械としての面白みがまったくなかった。いったいどこのメーカーのカメラを買ったのか忘れてしまったほどだ。もちろんフィルムを現像しなくて良い、何枚でも撮れる、なんだったら消すことだってできるし、編集だってできる。といいことずくめなはずなのに、何かときめかない。うーむ、これはいったいどういうことなのか。もはや自分自身、カメラというものに興味がなくなっているのか・・・もちろん子どもの頃の興味の持ち方はある意味異常だったから、それに比べればずっと冷静なのは仕方ない。考えてみるに、何度でもやり直しが利く、というところに、どこか冷めたものを感じたのかもしれない。人生は一度しかないのに、瞬間は一度しか訪れないのに、デジタルは何度でも(似たようなものなら)再現できるのだから。
それからどれくらい時間が経ったのだろう。人間面白いもので、それしかないとそれに慣れていくものである。電子レンジが今では調理に欠かせないのに似ている。僕も例に漏れず、デジタルカメラになんとなく慣れていった。
そんなときにあるテレビ番組で写真を撮らなければならないことになった。カメラは好きだけど写真は好きじゃない人間にとって、これは一種の修行みたいなものだ。まず、自分と向き合った。なぜ自分は写真が好きじゃないのだろう・・・と考えていくうちに、自分は人と交わることが苦手だ、というところに気付いた。遅いんだよ、と言うなかれ。歳をとっても、気付き、というものは存在するのである。そこで、僕は人と交わらなくていい方法をいろいろと考え、被写体を仕込むことで、妙な緊張感から逃げることに成功。こうして、少しずつではあるが、カメラ本来の姿と接することができるようになった。
世の中には同じような性格の持ち主も多いらしく、そんな人たちは、時に風景写真家やら、鉄ちゃんになっていった・・・とこれは想像であるが、コミュニケーションの上手な人たちだけがスナップフォトというか、ポートレート上手なのは確かだと思う。
フィルムカメラに憧れ、フィルムカメラで育った自分にとって、デジタルカメラは異次元の機械である。なにしろいくつもの調整項目がカメラに仕込まれている。プログラムモードにして、何も考えずに撮れば、それでもできてしまうのだが、こんな写真が撮りたい、というようなイメージがあるのなら、それは自分である程度調整可能だ。もっと言えば、例えアマチュアであっても自分がどんな写真家になりたいのか、ある程度イメージできるのなら、選ぶべきカメラが必然的に決まってくる。子どもの頃で言うなら、報道カメラマンはとにかく頑丈で壊れにくいニコンを選んでいたように。
そんなことに興味を持っていたら、どこからそんな噂が届いたのか、カメラグランプリの選考委員を仰せつかることになった。僕にとって、これは免許取り立てのドライバーにレースをやれ、というようなものだ。いや、レースは競争だから違うか。ま、とにかく右も左もわからず、子どもの頃のあの情熱だけを頼りに引き受け、はや5年くらいが経つ。選考のシーズンになると、山のようにカメラとレンズが届く。部屋がカメラで埋め尽くされる。僕は被写体を古いギターと決めて、ひたすら写真を撮っては見比べる。ああ、こんな光景をあの頃の自分に見せてやりたいなあ、と思う。毎回思う。夢が叶うどころか、想像すらできなかった世界だ。あの頃の自分だったら幸せすぎて死んでしまうかもしれない。ところが今はどうだ。こんな幸せなことが一瞬でも苦痛に思えることがあるのだ。なぜだ!
一眼レフに夢中だった少年時代の憧れと、ほろ苦い記憶。
大人になった今、その熱は再び目を覚ます。
フィルムからデジタルへ──カメラと歩んだ時間を、大人の視点で見つめ直す。
まつとうや・まさたか
◎音楽プロデューサー/エッセイスト。音楽制作にとどまらず、車・ファッションに関する造詣も深く、ライフスタイル系の発信も豊富。



